稀代のプレイボーイ、悪徳と愛欲の権化、毒の血の流るる肉体の悪魔。藤ヶ谷太輔さん演じるジュアンは「ドン・ファン」に抱いていた印象よりはるかに冷血で人嫌いでさえあるようだった。あらゆる女を籠絡しながら心の奧の一点は常に氷に閉ざされているとでもいうような非情の男。
愛という耳ざわりの良い言葉では到底覆うことのできないほどの、これは石の男に降る「呪い」と罰の物語だった。
彼は石のような冷たい心をしている。彼は愛に飢えてはいない。女のみならず、友も父も、母さえも愛さないし必要としていない。全てを持つ男は世界に倦んでいる。生まれながらに誰も愛さない。本当にそう思わせるほどのぞっとするような目のドン・ジュアン、そして吉野圭吾さんの怪演、騎士団長/亡霊。
物語の上では、騎士団長は娘を汚されたことへの復讐のためドン・ジュアンに挑み、死してなお彼を苛む。しかし、亡霊となった騎士団長はもはや娘の復讐ではなくただドン・ジュアンへの呪いと罰のために存在しているように思える。恐ろしいことにこの亡霊はドン・ジュアンにしか認識されていないので、彼が自分を罰するために生み出した呪いだと我々に意識させるには十分である。
呪いの発端となったマリアも、彼女自身というよりは石に命を吹き込む女としての性質的要素が呪いのそれらしさを助長しているような気がしてならない。やや素っ頓狂な台詞回しと、演出で割りを食った感があり、ファム・ファタールというよりは呪いの一部か生贄という印象だった。
とにかく、このドン・ジュアンの不幸は騎士団長の娘を侮辱したことではなく、己のうちの狂気から来るものだというのが率直な感想で、どことなく人間離れした硬質で精緻な美しさのある人だった。
あれほど露骨に男女を感じさせる台詞や振りが多用されているにも関わらず、不思議と藤ヶ谷さんのドン・ジュアンには品とストイックさがある。とりわけ惹かれたのはその身のこなしで、私は特に彼のファンではないので後方の席にも関わらずオペラグラスをほとんど使わなかったために、却って舞台上における彼の身振りやダンスがよく見えたのだが、いつもその時々のドン・ジュアンだ、という在り方をしていた。 一番好もしいのはダンスに衒うところがない点で、確かにうまいのだが押し付けがましくなく、芝居が好きな人なのかなという印象だった。
加えて、特に歌唱の面で実力者が多かったこともあって、この『ドン・ジュアン』は愛欲のドラマというより神話めいている。
物語に戻ると、ドン・ジュアンの罪の最も悲劇的な犠牲者たちはラファエルとエルヴィラだ。特にエルヴィラは恒松祐里さんの華奢さが悪い女を演じる哀れさを引き立て、配役の妙が光る。紛れもなく善良な市井の人であった彼らはドン・ジュアンの罪によって彼の呪いとなるが、ドン・ジュアンが死んだ後も彼らは生き続ける。彼らの人生にとってドン・ジュアンは災厄でしかなく、この救いのなさもどことなくエンターテインメントではなく聖書が寓話のような趣があるので。
最後に一点だけ宝塚版に言及すると、私は望海さんの芝居の真骨頂は人と生まれ人でなしに生き人として死ぬことで、本質はどこまでも人だと思っている。藤ヶ谷さんは人になるために苦しみ続け、まさしく人になるために死した人ならざる者で、そこに明確な違いを見て取れたからこそ素直に感動し称賛できたのだと思う。
未編集だったFNSうたの夏まつりでKis-My-Ft2を見て、『ファントム』のエリックがフィナーレのパリのメロディでバッチバチのウインクを決めたときと同様のしかたで絶命してしまったことを申し添えて、感想を締めさせて頂きます。(ぺろ って……しましたよね…………)