神々の土地(17年宙組)

 誰のものでもない極北の地と、そこにかつてロシアと分かたれた国に生きた魂たち。ストーリーの主軸となる人物こそいたものの、『神々の土地』は紛うことなきロシア文学的群像劇だった。群像の中には名もなき人びとがいる。それは劇中での民衆と限りなくイコールに近い役名もない組子たちでもある。トップ(コンビ)へのアテガキという宝塚の特性が最も強く出るはずのトップスター退団公演が、人物より物語性に重きを置いたスケールの大きい芝居だったことは意外ではあったものの、却って主演の朝夏まなとさんの舞台での在り方の巧さみたいなものが際立っていたような。

 彼女の演じるドミトリーは誠実で清廉、しかし政治や知略にも長けた主人公的な人物造形。それを殊更に押し出すのではなくて、ロマノフ王家の血を引くnoblesseとして当然のようにそこにいる、多分トップスターとして中心に立ち続けてきたからこそできる自然さで、存在感があるのに周囲を殺さない、お芝居にのめりこめる在り方だった。だから過ぎゆく数多の魂の中で、神々の土地が最後にわたしたちに(観客に)見せた、あるいはわたしたちが見たものはドミトリーとイリナの魂だったのだ。

 対照的なのは真風涼帆さんの演じるフェリックス。彼が近代人として神々の世界を出て生き続けているように(たぶんアメリカで大成して長生きするだろう)、真風さんは芝居と物語の外側にいた。主人公がいない、誰もが主人公になりえた物語の中で、意識的に主体となることを避けていたようにさえ見える。

 そして私の嗜好を措いても触れずにはおれないのがラスプーチン。ラスプーチンに関しては良い意味で役者の影がなかったので、先に役名が出てしまう。演じたのは愛月ひかるさん。前評判でとにかくすごいとはきいていたものの、実際に観ると本当にすごい。すごいとは何ぞとお思いでしょうが、物凄い。(1 ひじょうに気味が悪い。なんとも恐ろしい。2 並の程度をはるかに超えている。はなはだしい。3 何となく恐ろしい。また、何となくさびしい。)

 彼のこわさはその純粋さにある。彼は権力や金のために王家に近づく悪人ではない。打ち捨てられて死んでいった数多の魂の無力な祈りだけが神に届く(うろ覚え)と言ったことは彼にとって厳然たる事実で、病気治癒も人を退ける力も本当に霊験なのだ。ラスプーチンはドミトリーに殺されラスプーチンとしての生を一旦は終えるが、革命の徒の群れの中に亡霊のように取り憑いている。このときラスプーチンはもはや個人ではなく「無力な祈り」の体現者となって結果的にロマノフを滅ぼす。フェリックスがドミトリーの外側なら、ラスプーチンはドミトリーを内包する世界だ。ドミトリー(たち)を生み滅ぼした神々の土地そのもの。

 「土地」という言葉には特別な意味があると思っていて、無論、地表という物理的な場所としての「大地」の意味を内包してはいるだろうけれど、用地として区切られた場所としての「土地」、そして地域や地方性としての「土地」。マリア皇太后の言ったようにあの地はロマノフ王朝のものではなく、ロシアという国に生きる名もなき全てのものの土地であり、その祈りの届く地であるがゆえに神々の「土地」だった。

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