音楽の天使は存在していた。それは決して、ガストン・ルルーが彼の著作の中に描いた空想の産物ではなかったのだ。…
われわれ宝塚ファンは、「贔屓が出る公演は全てすばらしい」「贔屓が出る演目はすばらしいものでなければ許せない」という似て非なる2つの病を患っている。
こんなことを書くのは、新参ファンの私でさえよく知っているように、『ファントム』という作品がトップコンビの望海風斗さんと真彩希帆さんにとって特別な演目であるからに他ならない。宝塚のたのしみは単なる観劇だけでなく演者たる生徒さんたちへの極めて個人的な感情によるところも大いにあるけれど、それを鑑みずにすばらしいと思えたこともどこかに書いておきたいと思い、拙文ながら千秋楽に捧げます。(なお個人的感情によるところの感想は、ツイッターで大いにわめきちらかしました。)
「ファントム」という言葉の本質は実在しないことだと思っている。幻影、まぼろし、幽霊、そこに実体のないもの。しかし、実際のファントムは決して幽霊などではなく、神秘の存在でもなく、オペラ座の支配人見習いと団員の間に生まれたただの人間にすぎない。そのことは、物語後半の元オペラ座の支配人見習いの告白を待たずして知らしめられる。ファントムに遭遇したブケーの恐怖とは裏腹に、観客は自らの無害を示すようにブケーに縋るファントムの戸惑いを感じ取る。彼は人間だ。
そして彼の身のこなしや言葉や舞台への拘り、何よりも音楽に対する並々ならぬ思い入れと才覚は、オペラ座の申し子として生まれるはずだったエリックの芸術を愛する文化人として生きる素質と憧憬を感じさせる。このような生まれでなければ優れた歌手になったのだろうと思わせるに足る(望海さんの)歌と、そうありたかったのだろうと感じさせずにはおれない哀しさ。他人から醜いと思われること、あるいはそれ以上に、自分が醜いという事実に堪えかねているとでもいうような繊細さ。自分を地下に追いやる世界より、世界に出てゆけない自分を恨む弱さ。だからこそ、仮面でも顔でもなくその奥の心に触れてと言う願いの切実さがあまりにも際立っている。全ての感情が、ファントムと呼ぶにはあまりにも生々しい人間のそれであることを思い知らされる。
一方で、観客の立ち位置を離れて舞台に生きる人としてファントムを見るとき、彼は紛れもない異形だ。
父であるキャリエールが「もっとも恐ろしかったのは母親が我が子の顔を醜いと思っていなかったこと」といった意味合いのことを、エリックを愛し始めたクリスティーヌに語る場面がある。ここで示されるのは、この世界でエリックはファントムとして生きることしか許されない存在である、ということだ。彼は人間であるという「私」、あるいはエリックを愛し始めたクリスティーヌの強い確信と、「この世界」との乖離は、物語を一層悲愴にさせる。
ところが、この台詞を含むキャリエールの一連の告白が多くの人の共感を得られるとは言い難い内容であるにも関わらず、ひとえに彼を諸悪の根源に帰すことができずにいるのは、演じる彩風咲奈さんの有り様に依るところが大きいとも思う。このキャリエールは実に人間的で、前述の望海エリックとの血の繋がりを思わせるこまやかさと諦念、そして弱さと紙一重の優しさを持ち合わせている。だから、母親当人がエリックを醜いと思わなくとも、自分(キャリエール)を含む他人はそうとは限らない、その認識の差が却ってベラドーヴァやエリックを傷つけること、が彼の恐怖ではなかったか。正しいことと、正しい人が傷つかないこと、は完全に別の次元の話で、たとえば信号無視の車に轢かれて死んだとして、悪いのは車の運転手でも死ぬのは信号を守っていた人だとすれば、悪意ある世界で人が死なないためにできることは信号を守ろうという正しさの教育ではなく道を歩かせないことだ。実際、カルロッタの悪意によってクリスティーヌは傷つけられたし、彼女を守ろうとしてエリックがとった行動は「天使を地獄に送らない」ことだった。キャリエールも愛するベラドーヴァの天使を地獄へ送らないために地下に隠したとすれば、正しいことを強さに変えて生きていける人間ばかりではなくまた正しいことが強いわけではないと思っているキャリエールの人間らしさの表れだろうし、その上でエリックを愛した意志は優しさと呼んでいいはずである。自分も世界の悪意の一端を担っていることを認めた上でエリックを愛していたのだろう、弱さを知る強さを感じさせた魅力的なキャリエールだった。
人間と異形の顔を持ち合わせた男が真に一人になるのは彼の死によってである。死ぬことで、ファントムはエリックになりようやく姿を消す。とはいえ、エリックは元々薄命に生まれついていて、一連の事件がなくとも遠からず死んだのではないか。自分の命の短さを意識的ではないにせよ悟っていたからこそ、命をかけて、生きるに値する、生まれてきた意味、そういう大仰な言葉を口にしていたように思えてならないのである。キャリエールも、生まれてきた子どもの顔を見たときに行方を眩ました後のベラドーヴァの境遇からその命が長くないと思っていたとすれば、それは子どもにも伝わったかもしれない。そして、それゆえの「いつか見捨てなければならない」キャリエールの悲しいさだめが、いつかエリックの望むとおりに「眠らせて」あげる愛に変わったのだとしたら、父子の告白には真実を明かす以上の意味があったといえる。互いにいつか、と抱き続けてきたそのときが、ファントムの断罪ではなくエリックの救済だったことは、死にゆくエリックにとってはもちろん、息子を喪って生きていくキャリエールにとっても少なからず救いであったと信じたい。それが、死によってしか救われなかったエリックへの弔いになれば良いと思う。