fff—フォルティッシッシモ—(21年雪組) その3

その1その2の内容を前提とした、独立したテーマの感想です。

メッテルニヒの理想

 「国民の役に立つ音楽を書きたまえ」
 「役に立つ?」
 第11場A、監視によってルートヴィヒの耳が聞こえないという秘密を握ったメッテルニヒは、それを利用して彼を意に沿わせようとする。ルートヴィヒは第3場Aから既に、ナポレオンに否定的だったメッテルニヒに反駁しているが、ここでも明らかに敵対的な態度を見せている。
 一方で、第13場Aでルートヴィヒはナポレオンの問いに対して、「立派に生きたかった」「人の役に立つ」とメッテルニヒの言葉で返す。これは単なる偶然ではなく、彼の思想を全面的にではないにせよ受け入れ同調したからではないか。
 メッテルニヒの思想、あるいは理想は何か。あくまで『fff』の中の人物として考えてみたい。
 作中に出てくる王侯貴族たちは、自由な庶民の敵たる悪人としては描かれていない。マリー・アントワネットは音楽に感謝し皆同じ魂とモーツァルトを諭し、恋人ジュリエッタは結婚こそ拒んだがルートヴィヒの音楽の良き理解者であり、第3場Aで登場する皇帝フランツ1世は無礼な音楽家ルートヴィヒに対して寛大な態度を見せ、言うまでもなくルドルフ大公はルートヴィヒのパトロンにして友人でもあり最後までルートヴィヒに同情的であり続けたし、何よりブロイニング家の人々はルートヴィヒにとっての救いですらあった。彼ら個人は、典型的勧善懲悪の物語の善良な小市民に対する悪どい金持ちという型には嵌らない人々である。そして市民たちは、芸術への興味を持ち始めた者であると同時に未開の荒れ地のごとき未熟な精神の持ち主であり、「楽に」なりたい人々だ。
 言うまでもなく貴族の側に属するメッテルニヒが、しかし彼だけは自由な市民の敵と映って見えることに関しては後述するが、メッテルニヒは「身分制度などあってもなくてもどうせ人間には差がつく」というナポレオンの(あるいはルートヴィヒの中にもあった)思想の真実に気付きつつ、全員がそこそこではなく、少数が多数を支配する秩序を目指した。ヨーロッパ全土を手中にして連合を作るための途方もない労力を払わず、教育を広め精神を耕したりするような迂遠で時間のかかる方法をとらずに世界を安定させるには、最も手早いやり方だろう。多くの人間はこの世界と時代の貴族であったなら彼の方法を取るのではないか(少なくとも私はそうする)。だからこそナポレオンとゲーテは天才なのだ。
 このことを踏まえると、メッテルニヒの音楽観は軽視からくるものではないことがわかる。「民衆は、崇高な理想など求めていない」ことは、嘲笑ではなく憐憫と諦めのようにさえ思えるし、同様に「音楽はただ美しく、民衆を慰めよ」という言葉にも、慰めるという言葉に慈しみすら感じられる気がしてならないのである。生きることと考えることは辛く苦しく、それが一朝一夕に変わらないとすれば目の前の美しい音楽に慰みを得ることは救いだからだ。
 メッテルニヒは自由主義者の敵であり、芸術の検閲者として描かれるが、弾圧者ではない。サリエリを重用したことからも、音楽を利用する意図ではあったにせよそれ自体を否定してはいないことは明らかだ。役に立つ音楽とは、メッテルニヒの偽悪的芸術観といえば同情的に過ぎるだろうか。「耳のことを公表されれば、君は終わりだ」という台詞に、特に千秋楽では言葉どおりの脅迫以上の意味を言外に感じ取れたのも、自覚的であるかは措いても彼が真にルートヴィヒの敵ではないことを示唆しているかのようだ。

 ルートヴィヒがどういう人生を生きたかったかという自問の中で「役に立つ」と口にしたのは、この慰めとしての芸術の部分的受容と考えられる。方向性は違えど、音楽で人を救う、という手段と目的はメッテルニヒと重なるからだ。それはいかにも人の役に立つ音楽であろう。
 ゲーテは「芸術は政治からも解き放たれ、純粋な精神の世界を築くべき」と言ったが、ルートヴィヒはこのあと保身を促すゲーテに失望し袂を別つ。前述したようにこれはルートヴィヒがゲーテをも超える物語だということを考慮すれば、個人的なことは政治的なこと」という文脈でルートヴィヒの音楽が政治的であることはなんらおかしなことではないはずだ。そしてこれも前述のとおり、ルートヴィヒの音楽は神(なるもの)を謳うという意味で宗教的でもある。人の役に立つものであれというルートヴィヒの意図が含まれる音楽は、政治的であり宗教的だ。
 一方で、政治的であることと特定の政治主義、宗教的であることと特定の宗教は必ずしも結びつかない。『第九』の完成に至ってルートヴィヒが讃えたのは特定の神ではなくそれを内包する概念であり、歓喜による一体化という理想だとすれば、政治的・宗教的であることはむしろゲーテの言う精神の世界より広義だ。
 ゲーテとナポレオンという天才たちはそれぞれに自分の理想を最も正しいと信じていただろうが、メッテルニヒの思想には最初からそれを完全なものとは思っていないような諦めが滲んでいるように感じられた。しかしルートヴィヒが役に立つ音楽を作ったことで、メッテルニヒも救われたのだと信じたい。

孤独は悪なのか

  第13場Bでルートヴィヒは「どこまでも共に行こう」と謎の女に呼びかけた。ルートヴィヒの孤独を表すかのように舞台上の人々が去っていく中で、ゲルハルトとロールヘンにルートヴィヒと謎の女が重なるかのような一瞬がある。向かい合っているかのように見えたゲルハルトとロールヘンはしかし、すれ違うようにして反対の方向へと歩み出し、そのまま消えていく。「誰かといたって人は孤独だ」とはナポレオンの言だが、雪原での会話はほとんどルートヴィヒの思いだろう。人生は苦しみであり、人は孤独である。ルートヴィヒはロールヘンの死(苦しみの生)を悼むと共に、ロールヘンを得たはずだったゲルハルトの孤独も思ったはずだ。
 運命を受け入れたあとの「人と国は傷つけあい憎しみあう。それでも」というルートヴィヒの言葉は、憎しみと争いが存在することを認め、それが解決され得ないことをも示しているように思われる。人類の不幸を見たあとで「それでも」という逆接に続く文脈は、しかし人間は素晴らしい、ではなく、ある種の諦めあるいは受容の上での、一つにならなくてはいけない(神なるものの境地、あるいはまったき人間になる)、なのではないか、と。
 ルートヴィヒが共に歩むのは謎の女という人ではない何かだ。ここに違和感を、踏み込んでいえば拒否感を覚える人がいることは理解できる。恋人に裏切られ、尊敬した偉人と道を違え、孤独に生きてきたルートヴィヒに人間の恋人ができれば、文句なしのハッピーエンドなのに。しかしそれでは、一つになるための歌は歌えないのだ。人と国が争い合う世界には孤独も敗者も不平等も存在する。それを排除するのではなく、愛さねばならない、というのが彼の思う答えなのではないだろうか。「あなたが私を愛したから」。
 神の楽園を追われた後の分断の世で、人は孤独になった。歓喜によって一体となること、つまり平和や人と共にあることも結局は孤独な人の集合であり理想論なのかもしれない。しかしそれを認めずに孤独を避けることとただ孤独でいることを超えて、「それでも」歓喜を歌ったのだと思うと、謎の女が人でないにも関わらず彼女が恋人であることの必然性を理解できるような気がするのである。人間の恋人は、結局のところ孤独を癒し全き人間となるための万能の存在ではないからだ。ルートヴィヒが最後に歌うのは恋人への愛ではなく、友への「忘るな」という願いや「とわの愛」で、前述したように作品の枠を越えわれわれをも内包した世界だ。そしてその大団円も現実に起きたことではなく繰り返し述べているようにルートヴィヒの内的世界の出来事だとすれば、やはりルートヴィヒはどこまでも一人だ。しかしそれは決して、一人の人間の恋人を得ることに劣る人生ではないし、恋人を得ることは孤独の対義ではない。死ぬとき(去るとき)は結局一人なのだ、という動かしようのない事実を思うとき、孤独の肯定はむしろ救いなのかもしれない。

続・「忘れないで」

 バッハ、ヘンデル、テレマン、モーツァルト、サリエリ、ロッシーニ。天国の門の前で、あるいは現世で、ルートヴィヒ以外にも偉大な音楽家たちが登場している。
 『fff』がルートヴィヒの物語だとすれば、死せる音楽家たちが登場すること自体も当然として、天上界がラッパによって始まること、ケルブたちの台詞にしばしばメロディがついていることなど、音楽それ自体に重きが置かれていることの説明がつく。ルートヴィヒの世界は音楽が中心だからだ。ついでながら、ナポレオンが歌うのはルートヴィヒの思い描くナポレオンとして存在している第3場Bの戦場と第5場Fの戴冠式のみで、実際のナポレオンとして存在していたであろうゲーテとの対話の台詞にはメロディがない。同様にゲーテが歌うのはナポレオンと同じ戴冠式と第10場のボヘミアでの助言のみで、これは先に触れたとおりゲーテの述べた真実への共感の表れとして音楽が使われていると考えられる。そしてゲーテ自身の言葉である『若きウェルテルの悩み』の引用や、ナポレオンとの対話ではやはりメロディがない。ミュージカルという、宝塚で上演する以上は動かし難い手法の制約と作品主題が一致したことで、むしろ作品の完成度を高める要因になっている。同じ方法でゲーテを主人公にするのであれば、それは文学の形を取らねばならないからだ。

 耳に雲を詰める、という一見突拍子もない理由によって耳が聴こえなくなることも、これが「ルートヴィヒの物語」であれば理解できる。前時代の偉大な音楽家が、天国と地獄のやりとりはあるにせよ結局は王侯貴族に媚びない自分を疎んで耳を聴こえなくした、というのは、いかにも傲岸不遜な男の発想ではないか?ここで示されるのは、耳が聴こえないことにルートヴィヒが(ベートーヴェンではなく)特別な理由を見出さなかったことだ。耳が聴こえなくなった、という事実あるいは不幸は神の試練でもまして罰でもない。崇高な理由によって試練を与えられそれを乗り越えたことで偉業を成し遂げたり、観客にとって快くないであろう言動が罰せられるようなストーリーは、われわれに分かりやすい快楽と清々しさを与えてくれるが、それは運命をあるがまま受け入れることと反するし、過ぎればあらゆる偶然の災難をその人の非に帰するものとしてしまう危険性を孕む。
 一方でルートヴィヒは、他の音楽家たちの音楽を否定してはいない。王侯貴族の使用人とは言ったが、音楽家としての才は誰と比較するでも張り合うでもなく、作中で慰みの音楽として扱われるロッシーニ、その共謀者のサリエリさえも、第11場Aの戦勝記念コンサートのプログラム変更に対して異議を唱えるのみで、その思想にも音楽にも対立はない。ルートヴィヒは、先に述べたメッテルニヒの意に沿う音楽をある程度は受容していたであろうことがここでも理解できるのではないだろうか。実際、一時はルートヴィヒの音楽の新しさに熱狂した民衆と貴族は、すぐに別の音楽に夢中になる。人間には確かに、メッテルニヒが言うような性質が備わっているのだ。だから慰みの音楽を否定せず、それを消費する人間たちを知った上で、ルートヴィヒは訴えかける。「忘れないで」と。
 この「忘れないで」の切実さを語るに際しては、極力避けてきたメタ的な視点、つまり宝塚歌劇団のトップスターの退団公演である、ということを考慮に入れないわけにはいかない。「あしたは別れゆく人」に属する人がルートヴィヒとしてこの歌を歌うとき、前述した慰みの音楽を消費する人たちは必然的にわれわれに重なる。そして宝塚という機構のファンを自称するその人は、そこを去ることの意味するところを痛いほどにわかっているはずだ、という勝手な推測の下、私たちは「忘れないで」に対する応えを永遠に試され続けているような気さえするのである。

彩凪翔さんご卒業に寄す

 私は宝塚ファンではあるけれども、望海風斗さんのファンでもある。だから他の一人一人のタカラジェンヌさんの異動や進退について、あまり語らないようにしてきた。その人の(舞台)人生に関わるような決定や決断は、その人ではないある特定の人のファンを公言しながら語るには、あまりにもデリケートな話題だと思ったからだ。白状すれば、私が彩凪翔さんを認識するようになったのも望海さんの雪組への組替えがあったからこそ。しかし今になって、一人の舞台人として彩凪さんのことが好きだ、ということをようやく自分に認めてもいいと思えたので、そのことを書き残しておきたい。

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