ミュージカル イザボー(24年 東京建物Brillia HALL)

以下全て妄言 

作品・物語の主役はイザボーだということは言うまでもないのだが、では彼女と相対する役は誰かを考えてみると、私はヨランドではないかと思う。

 観る前は、キャスティングなどのメタ情報を鑑みて息子シャルル7世がそうだろうと思っていた。一幕までは、意外と夫シャルル6世なのではとも思った。が、最後まで観てはたと気づき、2回目でほぼ(自分の中で)確信した。これ、ヨランドが語るイザボーだ。

息子にして敵、という触れ込みではあったものの、劇中でイザボーが彼と直接やり合うような場面はないし、一幕では接触すらない。

対して夫は、一幕では夫婦としてのやりとりや見せ場があるものの、二幕の存在感は完全にイザボーより薄い。

ヨランドも、一幕ではイザボーとの接触はない。が、考えてもみてほしい。息子が狂言回しの役であるのはわかるとして、なぜヨランドが?正統な王の血筋に拘りはしても、実母への嫌悪を隠さず善き母として自身を慕うシャルル7世に、なぜわざわざイザボーを語ろうとするのか?彼女自身もイザボーを敵と見なしていながら、なぜフランスを滅ぼした女以外の見方を与えようとするのか?そもそもこの作品自体、ヨランドがいなければ始まりもしないのだ。シャルル7世がなんらかの理由から能動的に母を回想する演出にすることもできただろうし、その方が自然ですらあるにも関わらず、ヨランドの働きかけによってシャルル7世が過去を知ろうとするところから始まっていることに、意図を見出したい。

肉親であり、明らかに因縁深く(キャスティングの面でも)イザボーと対等である息子シャルル7世の、いわば脇役として出てきた育ての親ヨランドは、物語が進むにつれ存在感を増していく。時に政敵、時に情夫としてイザボーと関わった男たちがあっさりと死んでいくのと対称的に、彼女の言葉を借りて言えば運命の波に乗って、ヨランドは抜け目なく自身の地位を守り抜いた。歴史に冷遇された女は血で戦う、という決意には、敵と断言しながらも同じ女であり母であるイザボーへの奇妙な連帯感すら感じさせる。というか、十把一絡げにタンゴさせられている時点で、夫も含めて男たちはイザボーの対にはなり得ない気がする。追放されたイザボーをヨランドが訪れた際のやりとりも、どことなく好敵手めいた雰囲気すらある。

ここからはより一層妄言なのだが、のちのシャルル7世となるイザボーの息子を引き取って育てたことも、(あくまでこの作品の解釈として)政略結婚というよりもイザボーの子であることに意味があったのではないか。シャルル6世の子ではないかもしれないとの疑いがあったとしても、イザボーの子であることは間違いないのだから。

そして、彼女の敵は私だ、というシャルル7世の言葉を、ヨランドははっきりと否定している。彼女の敵は運命だった、と。あなたはイザボーとは違う、とという言葉は、最悪の王妃に似ていないという安堵からきたものではなく、落胆に似た諦めが言わせたものなのではないかとさえ思う。息子のあなたは彼女にとって脅威などではなかった、というような。実際、イザボーは子を産むこと、女であることが私なのではないと言っているから、子供への感情はあったとしても「私」が先に立つはずである。

シャルル7世よ、おまえの父親が本当は誰なのか、そんなことはイザボーもジャンヌ・ダルクも神も知らないが、ただおまえの母親がイザボーであることだけは、確かな真実なのだ。ジャンヌ・ダルクは正統の王がフランスを取り戻すと言ったが、それはおまえの父が前王であることとは言っていない(と思う)し、その少女は本当にエリーザベト・フォン・バイエルンではなかったのか?少女イザベルとジャンヌ・ダルクとカトリーヌは誰もが誰もになり得たのだ。

ということをヨランドは言いたかったのではないか、と私が思っているという話。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です