fff—フォルティッシッシモ—(21年雪組) その3

その1その2の内容を前提とした、独立したテーマの感想です。

メッテルニヒの理想

 「国民の役に立つ音楽を書きたまえ」
 「役に立つ?」
 第11場A、監視によってルートヴィヒの耳が聞こえないという秘密を握ったメッテルニヒは、それを利用して彼を意に沿わせようとする。ルートヴィヒは第3場Aから既に、ナポレオンに否定的だったメッテルニヒに反駁しているが、ここでも明らかに敵対的な態度を見せている。
 一方で、第13場Aでルートヴィヒはナポレオンの問いに対して、「立派に生きたかった」「人の役に立つ」とメッテルニヒの言葉で返す。これは単なる偶然ではなく、彼の思想を全面的にではないにせよ受け入れ同調したからではないか。
 メッテルニヒの思想、あるいは理想は何か。あくまで『fff』の中の人物として考えてみたい。
 作中に出てくる王侯貴族たちは、自由な庶民の敵たる悪人としては描かれていない。マリー・アントワネットは音楽に感謝し皆同じ魂とモーツァルトを諭し、恋人ジュリエッタは結婚こそ拒んだがルートヴィヒの音楽の良き理解者であり、第3場Aで登場する皇帝フランツ1世は無礼な音楽家ルートヴィヒに対して寛大な態度を見せ、言うまでもなくルドルフ大公はルートヴィヒのパトロンにして友人でもあり最後までルートヴィヒに同情的であり続けたし、何よりブロイニング家の人々はルートヴィヒにとっての救いですらあった。彼ら個人は、典型的勧善懲悪の物語の善良な小市民に対する悪どい金持ちという型には嵌らない人々である。そして市民たちは、芸術への興味を持ち始めた者であると同時に未開の荒れ地のごとき未熟な精神の持ち主であり、「楽に」なりたい人々だ。
 言うまでもなく貴族の側に属するメッテルニヒが、しかし彼だけは自由な市民の敵と映って見えることに関しては後述するが、メッテルニヒは「身分制度などあってもなくてもどうせ人間には差がつく」というナポレオンの(あるいはルートヴィヒの中にもあった)思想の真実に気付きつつ、全員がそこそこではなく、少数が多数を支配する秩序を目指した。ヨーロッパ全土を手中にして連合を作るための途方もない労力を払わず、教育を広め精神を耕したりするような迂遠で時間のかかる方法をとらずに世界を安定させるには、最も手早いやり方だろう。多くの人間はこの世界と時代の貴族であったなら彼の方法を取るのではないか(少なくとも私はそうする)。だからこそナポレオンとゲーテは天才なのだ。
 このことを踏まえると、メッテルニヒの音楽観は軽視からくるものではないことがわかる。「民衆は、崇高な理想など求めていない」ことは、嘲笑ではなく憐憫と諦めのようにさえ思えるし、同様に「音楽はただ美しく、民衆を慰めよ」という言葉にも、慰めるという言葉に慈しみすら感じられる気がしてならないのである。生きることと考えることは辛く苦しく、それが一朝一夕に変わらないとすれば目の前の美しい音楽に慰みを得ることは救いだからだ。
 メッテルニヒは自由主義者の敵であり、芸術の検閲者として描かれるが、弾圧者ではない。サリエリを重用したことからも、音楽を利用する意図ではあったにせよそれ自体を否定してはいないことは明らかだ。役に立つ音楽とは、メッテルニヒの偽悪的芸術観といえば同情的に過ぎるだろうか。「耳のことを公表されれば、君は終わりだ」という台詞に、特に千秋楽では言葉どおりの脅迫以上の意味を言外に感じ取れたのも、自覚的であるかは措いても彼が真にルートヴィヒの敵ではないことを示唆しているかのようだ。

 ルートヴィヒがどういう人生を生きたかったかという自問の中で「役に立つ」と口にしたのは、この慰めとしての芸術の部分的受容と考えられる。方向性は違えど、音楽で人を救う、という手段と目的はメッテルニヒと重なるからだ。それはいかにも人の役に立つ音楽であろう。
 ゲーテは「芸術は政治からも解き放たれ、純粋な精神の世界を築くべき」と言ったが、ルートヴィヒはこのあと保身を促すゲーテに失望し袂を別つ。前述したようにこれはルートヴィヒがゲーテをも超える物語だということを考慮すれば、個人的なことは政治的なこと」という文脈でルートヴィヒの音楽が政治的であることはなんらおかしなことではないはずだ。そしてこれも前述のとおり、ルートヴィヒの音楽は神(なるもの)を謳うという意味で宗教的でもある。人の役に立つものであれというルートヴィヒの意図が含まれる音楽は、政治的であり宗教的だ。
 一方で、政治的であることと特定の政治主義、宗教的であることと特定の宗教は必ずしも結びつかない。『第九』の完成に至ってルートヴィヒが讃えたのは特定の神ではなくそれを内包する概念であり、歓喜による一体化という理想だとすれば、政治的・宗教的であることはむしろゲーテの言う精神の世界より広義だ。
 ゲーテとナポレオンという天才たちはそれぞれに自分の理想を最も正しいと信じていただろうが、メッテルニヒの思想には最初からそれを完全なものとは思っていないような諦めが滲んでいるように感じられた。しかしルートヴィヒが役に立つ音楽を作ったことで、メッテルニヒも救われたのだと信じたい。

孤独は悪なのか

  第13場Bでルートヴィヒは「どこまでも共に行こう」と謎の女に呼びかけた。ルートヴィヒの孤独を表すかのように舞台上の人々が去っていく中で、ゲルハルトとロールヘンにルートヴィヒと謎の女が重なるかのような一瞬がある。向かい合っているかのように見えたゲルハルトとロールヘンはしかし、すれ違うようにして反対の方向へと歩み出し、そのまま消えていく。「誰かといたって人は孤独だ」とはナポレオンの言だが、雪原での会話はほとんどルートヴィヒの思いだろう。人生は苦しみであり、人は孤独である。ルートヴィヒはロールヘンの死(苦しみの生)を悼むと共に、ロールヘンを得たはずだったゲルハルトの孤独も思ったはずだ。
 運命を受け入れたあとの「人と国は傷つけあい憎しみあう。それでも」というルートヴィヒの言葉は、憎しみと争いが存在することを認め、それが解決され得ないことをも示しているように思われる。人類の不幸を見たあとで「それでも」という逆接に続く文脈は、しかし人間は素晴らしい、ではなく、ある種の諦めあるいは受容の上での、一つにならなくてはいけない(神なるものの境地、あるいはまったき人間になる)、なのではないか、と。
 ルートヴィヒが共に歩むのは謎の女という人ではない何かだ。ここに違和感を、踏み込んでいえば拒否感を覚える人がいることは理解できる。恋人に裏切られ、尊敬した偉人と道を違え、孤独に生きてきたルートヴィヒに人間の恋人ができれば、文句なしのハッピーエンドなのに。しかしそれでは、一つになるための歌は歌えないのだ。人と国が争い合う世界には孤独も敗者も不平等も存在する。それを排除するのではなく、愛さねばならない、というのが彼の思う答えなのではないだろうか。「あなたが私を愛したから」。
 神の楽園を追われた後の分断の世で、人は孤独になった。歓喜によって一体となること、つまり平和や人と共にあることも結局は孤独な人の集合であり理想論なのかもしれない。しかしそれを認めずに孤独を避けることとただ孤独でいることを超えて、「それでも」歓喜を歌ったのだと思うと、謎の女が人でないにも関わらず彼女が恋人であることの必然性を理解できるような気がするのである。人間の恋人は、結局のところ孤独を癒し全き人間となるための万能の存在ではないからだ。ルートヴィヒが最後に歌うのは恋人への愛ではなく、友への「忘るな」という願いや「とわの愛」で、前述したように作品の枠を越えわれわれをも内包した世界だ。そしてその大団円も現実に起きたことではなく繰り返し述べているようにルートヴィヒの内的世界の出来事だとすれば、やはりルートヴィヒはどこまでも一人だ。しかしそれは決して、一人の人間の恋人を得ることに劣る人生ではないし、恋人を得ることは孤独の対義ではない。死ぬとき(去るとき)は結局一人なのだ、という動かしようのない事実を思うとき、孤独の肯定はむしろ救いなのかもしれない。

続・「忘れないで」

 バッハ、ヘンデル、テレマン、モーツァルト、サリエリ、ロッシーニ。天国の門の前で、あるいは現世で、ルートヴィヒ以外にも偉大な音楽家たちが登場している。
 『fff』がルートヴィヒの物語だとすれば、死せる音楽家たちが登場すること自体も当然として、天上界がラッパによって始まること、ケルブたちの台詞にしばしばメロディがついていることなど、音楽それ自体に重きが置かれていることの説明がつく。ルートヴィヒの世界は音楽が中心だからだ。ついでながら、ナポレオンが歌うのはルートヴィヒの思い描くナポレオンとして存在している第3場Bの戦場と第5場Fの戴冠式のみで、実際のナポレオンとして存在していたであろうゲーテとの対話の台詞にはメロディがない。同様にゲーテが歌うのはナポレオンと同じ戴冠式と第10場のボヘミアでの助言のみで、これは先に触れたとおりゲーテの述べた真実への共感の表れとして音楽が使われていると考えられる。そしてゲーテ自身の言葉である『若きウェルテルの悩み』の引用や、ナポレオンとの対話ではやはりメロディがない。ミュージカルという、宝塚で上演する以上は動かし難い手法の制約と作品主題が一致したことで、むしろ作品の完成度を高める要因になっている。同じ方法でゲーテを主人公にするのであれば、それは文学の形を取らねばならないからだ。

 耳に雲を詰める、という一見突拍子もない理由によって耳が聴こえなくなることも、これが「ルートヴィヒの物語」であれば理解できる。前時代の偉大な音楽家が、天国と地獄のやりとりはあるにせよ結局は王侯貴族に媚びない自分を疎んで耳を聴こえなくした、というのは、いかにも傲岸不遜な男の発想ではないか?ここで示されるのは、耳が聴こえないことにルートヴィヒが(ベートーヴェンではなく)特別な理由を見出さなかったことだ。耳が聴こえなくなった、という事実あるいは不幸は神の試練でもまして罰でもない。崇高な理由によって試練を与えられそれを乗り越えたことで偉業を成し遂げたり、観客にとって快くないであろう言動が罰せられるようなストーリーは、われわれに分かりやすい快楽と清々しさを与えてくれるが、それは運命をあるがまま受け入れることと反するし、過ぎればあらゆる偶然の災難をその人の非に帰するものとしてしまう危険性を孕む。
 一方でルートヴィヒは、他の音楽家たちの音楽を否定してはいない。王侯貴族の使用人とは言ったが、音楽家としての才は誰と比較するでも張り合うでもなく、作中で慰みの音楽として扱われるロッシーニ、その共謀者のサリエリさえも、第11場Aの戦勝記念コンサートのプログラム変更に対して異議を唱えるのみで、その思想にも音楽にも対立はない。ルートヴィヒは、先に述べたメッテルニヒの意に沿う音楽をある程度は受容していたであろうことがここでも理解できるのではないだろうか。実際、一時はルートヴィヒの音楽の新しさに熱狂した民衆と貴族は、すぐに別の音楽に夢中になる。人間には確かに、メッテルニヒが言うような性質が備わっているのだ。だから慰みの音楽を否定せず、それを消費する人間たちを知った上で、ルートヴィヒは訴えかける。「忘れないで」と。
 この「忘れないで」の切実さを語るに際しては、極力避けてきたメタ的な視点、つまり宝塚歌劇団のトップスターの退団公演である、ということを考慮に入れないわけにはいかない。「あしたは別れゆく人」に属する人がルートヴィヒとしてこの歌を歌うとき、前述した慰みの音楽を消費する人たちは必然的にわれわれに重なる。そして宝塚という機構のファンを自称するその人は、そこを去ることの意味するところを痛いほどにわかっているはずだ、という勝手な推測の下、私たちは「忘れないで」に対する応えを永遠に試され続けているような気さえするのである。

fff—フォルティッシッシモ—(21年雪組) その2

「忘れないで」

 忘れない、と誰もが思ったはずだ。忘れるはずがない。忘れたくない。
 オーストリア皇帝や貴族たちが聴いたことがない音として称賛し、庶民たちが熱狂した未知の大きさを持つルートヴィヒの音楽。革命家とまで言わしめたほどの新しい音楽家はしかし、一たび耳が聞こえないことが明るみに出ると、すぐに「新時代の旗手」に取って代わられてしまう。彼らにとってはモーツァルトでもその再来のベートーヴェンでもあるいはロッシーニでも構わないのだ、楽になれれば。芸術も娯楽も文字どおり消費し続け瞬間的な高揚を得ることを日常にして生きている、私のような現代人にも耳が痛い話だ。
 100年繰り返してきた歴史に連なり、後進に託して舞台を去ろうとしている人が歌う「忘れないで」は、あまりにも重い。退団という一大イベントを楽しんだあと、彼女がいなくなっても続いていく世界と彼女がやってくる世界の両方で、私たちは変わらず消費を続けていくと思っているからだ。
 私は『fff』を、「この歌」を、忘れるだろうか?
 感動のままに、忘れない、と誓うことは容易いが、当然のことながら忘れるかどうかは時が経ってみなければわからない。だからまだ終わってはいないのだ。「忘れないで」と、言われなければ今日で消費し尽くしていただろう作品を、終わらせるのかはきっとこれからも思考し続けるかどうかに懸かっている。

fff—フォルティッシッシモ—(21年雪組)

ゲーテ、ナポレオン、そしてベートーヴェンの関係性

 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、1749 – 1832
 ナポレオン・ボナパルト、1769 – 1821
 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、1770 – 1827
 主要登場人物である同時代の三人の偉人は作中において「覇道が交差する」とされているが、同時に一人年長のゲーテを頂点とした対等ではない関係性が示唆されている。言うまでもなく、ゲーテは『若きウェルテルの悩み』でまさに一世を風靡し当世の青年を啓かせたが、その青年の中にナポレオンやルートヴィヒ(そして『歓喜に寄す』のシラー)も含まれるだろう。実際、作中でゲーテが「我が文学」を「人間の光」と見做したあと、ナポレオンは「本物の人間は、光」であると断定した上で「強烈な光を目指して」彼に教えを請い、ルートヴィヒは「あの光 自由目指し」て対話を求め、彼はそれぞれに示唆に富んだ助言を与えている。第2場で三角形の頂点の位置に立って人間の勝利の意味を問い、二人を見守るとして外から物語を語り始めるのがゲーテであることも、彼が二人の、人間の魁であることを表しているかのようだ。
 ゲーテはウェルテルを通じて、人間の精神すなわち個人の内的世界を誰にも持ちうるものとして詳らかにした。そして外的世界の現象や行動ではなく、その内的世界における心の動きよう、精神を最も重きものと見做した。『fff』がベートーヴェンの偉人伝ではなく、ルートヴィヒという個人の内的世界を(謎の女という想像上の生き物までも可視化して)主軸とした物語であることは、ゲーテに啓かれた人間の一人であるルートヴィヒを描く上で当然とも言えるだろう。偉人ベートーヴェンの生涯にナポレオンのような劇的な出来事が少ないことを措いても、ルートヴィヒにとって重要なのはいつどこで何が起き何をしたかではなく、彼の内的世界に於ける苦悩なのだ。いわばこれは虚実織り交ぜた私小説としての『若きルートヴィヒの悩み』である。(「誰もが知る伝説の男たちについての、新しい物語」!)

 ゲーテによって目覚めたもう一人の人間、ナポレオンはその意味でルートヴィヒと同じ層に立つ『若きルートヴィヒの悩み』の登場人物と言えよう。
 同年代の青年として憧れを抱き、自分もあるいは並び立ちたいと願う英雄として、ナポレオンは存在している。謎の女は「心のお友達」と揶揄するが、まさにルートヴィヒの物語の中におけるナポレオンは彼の心の中の偶像だ。第5場F、戴冠式のさなか、奮起するルートヴィヒに「お前の手にはたった一本の鉛筆のみ」とその無力を説いたナポレオンは明らかに実在ではない。そして皇帝となったナポレオンに疑問を呈するかのように「革命は暴力の力だけか?」と投げかけるゲーテをよすがとして、ルートヴィヒは立ち上がる。人間ゲーテの意志を正しく理解し継ぐのはナポレオンではなく自分であるとでも言うかのように。第5場G、ハイリゲンシュタットの遺書で、ゲーテが「王侯貴族以上の精神」と説いた志を、ルートヴィヒは「王よりも高い精神」として歌い、音楽の力に対するものとしてナポレオンの持つ力である権力・暴力を挙げていることからも、作中の二人の関係はゲーテの下に対等、いわばライバルであることが見て取れる。
 「どちらが歌うか、勝利のシンフォニー」——。冒頭ナポレオンに憧れていたルートヴィヒは皇帝となった彼に幻滅し、しかし最後には手を取り合って勝利を歌う。彼らはなぜ分かり合えたのか?
 音楽と戦術は似ている。第13場Aでナポレオンが国造りと戦術を語るときに使う「正しく調和した世界の作り方」や「誰も思いつかなかった新しい法則と正解」、これは第1場の天上界で智天使ケルブが音楽について説いた「神の秩序を音で表す」ことに通ずる。二人の天才の精神は恐らく神の秩序を「感じ取る」ことができ、それを一人は国造りに、一人は音楽に表した。二人が邂逅するロシアの平原は、精神的にも肉体的にも極限状態にあったルートヴィヒの夢や幻覚、あるいは単に彼の内的世界で、小さな炎を焚いたナポレオンは戴冠式と同様に実在ではない。しかしルートヴィヒの内的世界では、ナポレオンの存在は確かにその役目を果たしていたのだろう。しかし、同じく想像上の生き物であるところの謎の女がセント・ヘレナにいたと告げたこと、「みんなのところにいた」こと、ナポレオンを含む誰もにとっての「もう一人のあなた」であることから、ルートヴィヒは彼女の存在を介して自分と同じ神の秩序を表そうとしたナポレオンの思想を理解したのではないか。ナポレオンが刻むリズムとルートヴィヒの号令が重なり、音符と兵士が連動して動く様は、まさしく「神のお与えになった美しい音」「その連なり」の表れであり、やや乱暴な飛躍だが、“イデア”あるいはカントの「物自体」の概念に見られるような、(この場合は音楽や戦術が表そうとした)見えざる本質としての神の秩序を想起させる。ナポレオンが「あまりにも遠く誰にも見えない」と自ら豪語し、ゲーテが「まだ誰も知らない一つの理想」と称したのも、その高みのゆえにだろう。ナポレオンは斃れ、ルートヴィヒは最後にそこへ辿り着いた。
 恐らく、ゲーテとナポレオン、そしてベートーヴェンが「感じ取」ったそのイデア(「神の秩序」、あるいは「理想」「光」「まだ見ぬ世界」……)を、ゲーテから生まれた二人がそれぞれ違った方法で現実に呼び起こそうとした過程を、ルートヴィヒの側の物語として描いたのが『fff』ではないだろうか。

シラーとゲーテとベートーヴェンの友人たち

 偉人たちの他、登場人物として欠かせないのは故郷ボンの親友ゲルハルト・ウェーゲラー、エレオノーレ・フォン・ブロイニング(ロールヘン)の夫妻だ。ロールヘンは若年時代のルートヴィヒの想い人として描かれており、『若きウェルテルの悩み』のロッテに相当する人物だろう。ロッテの夫となる人、アルベルトはウェルテルにとって良き友人であり尊敬する人でもあった。ここで思い起こされるのは、モデルとなったゲーテの想い人シャルロッテの夫にして友人のケストナー、そして『歓喜に寄せて』のシラーと彼の支援者にして理解者でもあったケルナーとの友情である。
 『若きウェルテルの悩み』そしてゲーテを引き合いに『fff』を解釈すれば、その作品の根幹である恋心、即ちルートヴィヒのロールヘンへの想いと彼女自身の存在に重きが置かれるべきだろう。実際、ロールヘンは物語中でルートヴィヒの音楽(ピアノソナタ第14番)に気づく、ボンへ帰るよう手紙を送る(本人が読み上げる形で)、打ちひしがれたルートヴィヒにコートを着せかけるなど、彼にとって重要な存在であることがわかる。だが、経済的にも精神的にも困窮していたシラーがケストナー(たち)との友情に救われ『歓喜に寄せて』で友情を謳ったことを考えるとき、そのシラーと重ねて、むしろ友人としてのロールヘン、そしてゲルハルトとの友情が交響曲第9番を生んだと言うこともできるのではないだろうか。特にゲルハルトは、実際に会ったゲーテも含めほぼ概念的に登場している先人・偉人たちや、思い出や拠り所としてのロールヘンと異なり、一個の人格を持った他人としてルートヴィヒの物語に存在した上で、彼に多大な影響を与えた人物として描かれている。ルートヴィヒの内的世界の登場人物である(ゲーテと彼に耕された人間としての)ナポレオンに対して、外的世界の登場人物がゲルハルトと言えるだろう。タイトルにして劇中最後の台詞でもある「フォルティッシッシモ」を命名したのがゲルハルトであることは非常に象徴的だが、幼いルートヴィヒを救ってブロイニング家へ連れて行き、「君の音楽の代金だよ」と音楽の価値を教え、芸術家や芸術が王侯貴族のものではないという示唆を与えて「ゲーテやナポレオンのようになれ」とウィーンへ送り出す、といったルートヴィヒの現実の生活における変化のきっかけとなっていることも、ルートヴィヒにとってのゲルハルトの存在の大きさを示しており、ロールヘンへの恋心が主題で単なる恋敵ならばありえない描かれ方だろう。

 死の直前にルートヴィヒが思い起こしたのはゲルハルトからの手紙に同封されていたロールヘンの最後の手紙であり、それを読み上げたのはゲルハルトだった。第12場でルートヴィヒが失意のうちにボンを去ってから最後のシンフォニーを書き上げるまで、舞台上では時間と空間が交錯するが、この手紙とナポレオンの死、曲の創作と完成はほぼ前後していると言って差し支えないだろう。畝とは作物を作るため畑の土を盛り上げることだが、ここで語られる「土を耕す」は言うまでもなく作中で繰り返される精神を耕すという言葉に掛かっている。ロールヘンが死ぬ前に書いた手紙が、ルートヴィヒの精神が耕され畝を立てられたことを示すためにここで使われているのである。
 無論、『第九』はゲルハルトに捧げられたわけではなく、シラーもまた『歓喜に寄せて』で単にケルナーという個人との友情に感謝したわけではない。ルートヴィヒは死にゆくナポレオンに対して、「ナポレオン!我が友」と呼びかけた。ここに至って「友」は、歓喜の歌への繋ぎとしてベートーヴェンが作詞したレチタティーヴォにおける「おお友よ(O Freunde)」と同じような、人々や皆といった広義的な意味を持つようになると思われるが、その源にはシラーと同じように個人としての個人への人間への友愛があるだろう。ルートヴィヒにとっては、ロールヘンがウェルテル/ゲーテにとってのロッテ/シャルロッテであるとともに、ゲルハルトもウェルテル/ゲーテ/シラーにとってのアルベルト/ケストナー/ケルナーであり、その人生と作品において等しく大きな役目を果たしたといって良さそうである。

「では問おう」「音楽は誰のもの?」

 「お前たちが現れるまで、音楽は教会のためにあった」
 第1場でケルブと天使たちははっきりと音楽は神(/教会)のものであるとしている。天上界がルートヴィヒの精神世界にせよ実際の世界にせよ、『第九』が人間の勝利であり人間讃歌だとすれば、彼らがルートヴィヒや音楽家を赦すはずはない。「神を恐れるどころか、人間であることを信じ、人間であることを叫ぶ」ような者は、ケルブにとって忌々しい「神をも恐れぬ人間ども」でしかないのだ。しかしクライマックスでは、人間の合唱に合わせて天使たちは歌い踊り歓び、ルートヴィヒと彼の音楽を肯定する。つまり『第九』は人間の勝利でも讃歌でもないはずだ。ではルートヴィヒは単に天使たちの言う神と教会を讃えるためだけに最後のシンフォニーを作ったのかといえば、そうではない。
 先に触れたように、ルートヴィヒが『第九』として昇華したのは「神の秩序」と言い表されたイデア的概念だと考えられる。神の秩序という言葉自体は、世界は神によって作られたものでありその高い次元には神の秩序が存在する、という中世〜近世キリスト教圏における世界観の表れとして一般的だ。それを音楽の歴史に照らせば、6世紀〜9世紀頃に成立したと言われる教会音楽のグレゴリオ聖歌はまさに神の秩序を表すことを目的とした音楽で、神の秩序/神の作った世界、という構造を、神の音楽/神の似姿である人間の音楽(声楽)、に置き換えたものと言える。神の秩序を表すものは人間の声だったのだ。その後、ルターの宗教改革などを経て神の音楽たる教会音楽は変容していくが(『ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる』に詳しい)、その源流は一考に値するだろう。

 ここでカントの唱えた理性宗教という宗教観を持ち出してみたい。作中、カントが直接言及されるのは第13場Aの「好きな本は?」「カント!」のやりとりのみだが、ベートーヴェン(とシラー)がカントに傾倒していたことはよく知られている。この勤勉な音楽家はキリスト教に限らず世界の神々や宗教についての様々な本を読んでいたこと、『fff』が天上界に始まり天上界に終わることからも、カントの神を紐解いておくことはルートヴィヒの、引いては『第九』の持つ宗教観の推察に有用であると思われるが、哲学については素人の理解による考察であることを含み置いて頂きたい。
 カントの善や道徳の概念はそれを述べる技量を持たないため省略するが、善をまっとうするための標となる理念に対して実存(キリスト教であれば神の子イエス)を求めず、あくまで自身の理性のうちにそれがあるとするのが理性宗教だ。そして理性宗教を円として表したとき、より大きな同心円としてキリスト教などの啓示宗教という概念がある。カントはキリスト教の本質のみが理性宗教の資格を備えているとしているが、それでも全ての啓示宗教は理性宗教の前にはそれを拡大した同心円でしかない。このことは前述の神の秩序/神の作った世界の関係に照らして、理性宗教/啓示宗教(キリスト教)と捉えられないだろうか。これを反映すると、神の秩序は必ずしもキリスト教世界の神である必要はなくなる。なおカントの『たんなる理性の限界内の宗教』は時のプロイセン国王によって発禁の憂き目に遭っている。
 神は人間のうち(精神、内的世界)にあるとすれば、ハイリゲンシュタットの遺書における独白、「体の外へ」、つまり今はまだ外にはない「中に鳴り響く音」は神の音楽と言って良いのではないだろうか。第10場でゲーテが示唆する「まだ見つけていない真実」は、ルートヴィヒの中に鳴り響きまだ音楽として表れていないイデアであり、その片鱗が『英雄』や『運命』だったのだろう。

 神の秩序が必ずしもキリスト教の文脈の中に帰さないとすれば、天上界とケルブの重みは必然的に変わってくる。逆説的だが、ケルブが居たから『歓喜の歌』でケルビムを歌ったのではなく、ケルビムを歌ったからこの物語にケルブが登場したのだ。キリスト教圏にいたルートヴィヒの物語における天使の役としては妥当であろう。
 シラーの『歓喜に寄せて』でも、キリスト教的文脈における神の世界と古代ギリシアの神々の世界は交錯し(一人の偉大な神と楽園の神々)、とりわけ「酔いしれ」「葡萄」「黄金の酒」「グラス」といった言葉からは、畑を耕し葡萄(酒)を作ることを教えた豊穣と酩酊の神、ときに革命の神ともされるデュオニューソスが連想される。これは『「歓喜に寄せて」の物語』に詳しいが、『歓喜に寄せて』ひいてはベートーヴェンによる『歓喜の歌』における歓喜の意味を紐解く要素となっており、端的に言えば感情としての喜びや嬉しさに留まらず熱狂や感激といった魂の高揚状態そのもの、神的な狂気や狂乱を表している、ということだ。シラーはこの歓喜によって、分断された世界が高次に一つにまとまることに救いを見たが、このことは作中のナポレオンが理想を語る際の「交流し一つになる」という台詞とも通ずる。一方で、「ヨーロッパ全体が豊かになり、全員が」というヨーロッパ諸国連合の理想に対して(ヨーロッパ人全員が)と注釈をつけたくなることも、後世シラーやベートーヴェンがときにヨーロッパ人あるいはアーリア人の一体化(によって必然的に起きるその他の人種の排除)に利用されつつ、全人類の一体化を想起させるとして忌避された事実を思えば当然のことだろう。ナポレオンの見た一体化する=歓喜の理想はヨーロッパに止まっている。

 ルートヴィヒの理想はヨーロッパ(ナポレオン)を超えたのか?それは明示されてはいないし、ベートーヴェンがそうだったかという点についてはより証明が難しい。しかし繰り返すがこれはルートヴィヒの個人的な物語だ。その象徴たる謎の女の存在が、その答えに近しいのではないだろうか。
 謎の女は自らの存在を「不幸」なるものと認識している。
 「不幸に敗北するか?それとも不幸に戦いを挑むか?それとも…」「不幸と一緒になって、喜びを歌」うか。
 謎の女は「あなたは不幸」、ナポレオンは「生きることは不幸だ」と、ルートヴィヒの内的世界の人物が言うのはそれが彼自身の考えだからだ。彼は不幸を否定しない。そして人々のそばにいる不幸をも愛した。謎の女が歌う不幸にはおそらくナポレオン戦争によって不幸になった人々が含まれている。侵略者の勝利には敗者がいて、彼らの不幸がいつくしまれることはないだろう。第14場で、ルートヴィヒにとって公/私の不幸とも言えるメッテルニヒと父親ヨハンが「許しあえるだろう」と歌うことはルートヴィヒの感情として象徴的だ。
 不幸は幾度となくルートヴィヒに銃を差し出した。ウェルテルを捕らえた自死への憧れを示唆するように(そして当時ウェルテルに憧れた青年が次々に自死したことを仄めかすように)、不幸自身が銃を向けるのではなく、ルートヴィヒが(彼女曰く)自由になれるよう、手渡すだけだ。しかしルートヴィヒは死ななかった。そして最期の時が来ると、不幸はナポレオンの形見だという銃をルートヴィヒに向ける。「たとえ俺を殺すとしても」と歌うルートヴィヒは、死は受け入れても自死を選ぶことはないだろう。ここに至ってウェルテルをなぞっていた青年は消え、物語はルートヴィヒのものになる。臆せずに言うならば、ウェルテル(ゲーテ)を超えた人間になったのだ。真実、ベートーヴェンがゲーテより偉大だったかどうかは問題ではない。だが、比較的裕福な生まれのゲーテがその終生を困窮することなく過ごしたことには触れておく必要があるだろう。シラーがベートーヴェン同様に苦難と努力の人という像で受容されていることを考えるとき、この作品に採用された文人としての偉人がゲーテである理由の一端もそこに見いだせるのではないか。
 いずれにしても、ナポレオンやゲーテのようにではなく、ルートヴィヒは彼らを超えたか、あるいは内包してしまった。主人公だから、という一見陳腐な理由は、ルートヴィヒの物語であることが諒解されている以上十分に成立する。

 そして、謎の女にはいくつかの名前がある。人類の不幸、運命、運命の恋人、疫病神、才能。言うまでもなく彼女はルートヴィヒの内的世界の存在であることを思い返すとき、謎の女とは神の秩序なるものが、ルートヴィヒの内面において顕れた姿とも見做せるのではないだろうか。イデアそのものを人間界の言葉や物体で表すことができないとすれば、彼女を表す言葉が一つではないことはおかしなことではない。
 第2場でゲーテは観客の疑問を代弁するかのように「この声は誰だ!?」と問う。謎の女の声が『英雄』に重なること、『月光』を歌うこと、『運命』を捧げられたことからも、彼女はルートヴィヒの内にある神の秩序たる音楽でありゲーテの言葉を借りるなら「まだ見つけていない真実」「本当にあなたの 歌うべきこと」の片鱗であることが推察できる。この第10場で、謎の女はゲーテの言葉をルートヴィヒに伝える役目を担う。これは単なる耳の代わりとしての意味(手紙の代読やメッテルニヒの代弁)の他に、ゲーテの言葉がルートヴィヒの中に片鱗を見せつつある真実と重なることを示しているのではないか。ルートヴィヒの才能や志の象徴としての小さな炎が謎の女よりあとに生まれ、炎が消えても謎の女は存在していたことからも、謎の女は炎に先立つ存在としてルートヴィヒのそばに居たことがわかる。そして『第九』の完成に至って、彼女は完全な姿で現れた。
 彼女の自称を覆し、謎の女が運命の恋人となる点についてはロマン・ロランの『ベートーヴェンの生涯』に出典を求めたい。

彼は運命(傍点)と婚姻して自分の敗北から勝利を作り上げた。 〜中略〜 ベートーヴェンが勝利を獲得したのはわれわれのためだ。

 これは単なる結婚というより聖性のある結びつきとでも解釈したい。運命、自由、勝利、そして歓喜は女神だ。

 ルートヴィヒは言う。
「音楽は俺たちのものだ!」
 俺のものでも俺たち人間のものでもない、「俺たち」は人間のうちにある神や「高い世界」を内包する。「steht vor Gott—」、その代理人として存在したケルブや天使たちが『第九』を認めたのは、それが単なる人間讃歌ではなく神の秩序をも表したからだ。名前を持つ実存としての神ではなく、ケルブたちが神の音楽と呼んだ、人のうちにある善、光、至るべき高い世界、まだ見ぬ世界……それを表すのは他ならぬ、人間の声なのである。

(終わりに)タカラヅカは私を精神の高みへ連れて行くか?

 『fff』は、『若きウェルテルの悩み』がそうだったように、面白いあらすじに緻密な伏線や劇的な展開や主人公の胸のすく活躍を織り込んだ娯楽作品では決してなかった、と思う。『シルクロード』が徹頭徹尾ファンの見たい(であろう)トップスターを演出していた作品であったことも相まって、作品としては好きだが退団公演でわざわざやってほしかったものではない、というのが初めて観たあとの正直な感想だった。
 当時の自分のツイッターでの呟きを見返すと、メッテルニヒの台詞にかけて、
「『音楽はただ美しく民衆を慰めよ』というメッテルニヒの言葉、タカラヅカをそのようなものと見做している愚かな貧しい市井の民であるところの私に深く突き刺さりました」
「性質の悪いことに、私は芸術を慰みの娯楽として扱っているのではなく、無意識下で舞台(宝塚)は芸術の範疇にないものと見做していたので結果としてそういう認識になっていた、が正しい。宝塚には我らを精神の高みへ連れて行くことを、求めていないというよりは期待していない。」
という戸惑いがあった。
 つまり私自身はいわゆる『シルクロード』(レビュー)的楽しみとしての宝塚が好きな性質で、実は芝居の脚本に文句を言うファンに対して、「宝塚で何を言っているのか」というオタク的冷笑態度(この文脈における「オタク」は悪い意味で)を、口にすることはないにせよ内心でとるさえしばしばあった。態度は別としてその娯楽的楽しみ方も間違ってはいないと思いたいし、特に宝塚にはそういう面もあると思っている。
 しかし『fff』はそのような観客(=私)に対して、舞台にも、ひいては宝塚にも、精神を耕す力は宿っているのだということを真正面から突きつける。
 「道徳的施設としてみた舞台」の中で、シラーはこう述べている。

この人工の世界[=舞台]において、私たちは現実の世界を夢のうちに忘れ、自分自身のもとへ帰るのです。 〜中略〜 あらゆる社会や地域、階級の人びとが、人為や俗流の枷を逃れ、運命のあらゆる強制を断ち切って「一つの」すべてを包みとる共感によって同胞となり、「一つの」種族に再びまとまり、自らも世界も忘れ、天界の根源へと近づくのであれば。そして彼の胸には「一つの」感覚だけがあるのです、まったき人間である、という感覚が。

 この体験はまさしく先に述べた「歓喜」の状態そのものである。
 第13場Bから第14場へ移り変わる性急で暴力的なほどの熱狂は、18世紀から19世紀という激変の時代に現れたベートーヴェンの音楽が与えた衝撃はかくもあっただろうかと思わせ、観客にその追体験をさせる。追体験という表現では傲慢で、体験とすべきか。『fff』の中で『歓喜の歌』によって一体となることは単なる舞台上の表現にとどまらず、観客をも「まったき人間」という高い世界へ連れてゆくものであり、まさしくルートヴィヒの目指した芸術の在り方だ。更にルートヴィヒを見守ってきた観客が彼に共感するほどに、否が応でも歓喜の輪に入らざるを得なくなる、これはほとんど“仕掛け”と言っていいだろう。
 個人的には、「歓喜」は狂乱と紙一重の感動だと思っている。だから観終わったあとに残る「何か物凄い体験をした」という感覚を「ものすごかった」という忘我で終わらせずに向き合うことが精神を耕すのだと思って、自分なりに言葉を尽くしてみた。筆舌に尽くしがたい感動は、筆舌を尽くしたあとにしかありえないからだ。
 未開の荒れ地から、芸術への畏敬を込めて。

参考・引用

ロマン・ロラン『ベートーヴェンの生涯』, 片山敏彦訳, 岩波書店, 1965年
谷克二『ベートーベンの真実』, KADOKAWA, 2020年
片山杜秀『ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる』, 文藝春秋, 2018年
樺山紘一『《英雄》の世紀 : ベートーヴェンと近代の創成者たち』, 講談社学術文庫, 2020年
門馬直美『ベートーヴェン 巨匠への道』, 講談社, 2020年
矢羽々崇『「歓喜に寄せて」の物語』, 現代書館, 2017年
杉本淑彦『ナポレオン : 最後の専制君主、最初の近代政治家』, 岩波書店, 2018年
アリステア・ホーン『ナポレオン時代』, 大久保康子訳, 中央公論新社, 2017年
石川文康『カント入門』, 筑摩書房, 1995年
ゲーテ, J. W. von『若きウェルテルの悩み』, 竹山道雄訳, 岩波書店, 1978年
「ル・サンク『f f f ―フォルティッシッシモ―』『シルクロード〜盗賊と宝石〜』<雪組>」Vol.212, 宝塚クリエイティブアーツ, 2021年