観劇予定がなくなり、予約していたレストランが臨時休業になり、前売りを買っていた企画展が中止になったゴールデンウィークを彩ってくれた配信の思い出。
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fff—フォルティッシッシモ—(21年雪組) その2
「忘れないで」
忘れない、と誰もが思ったはずだ。忘れるはずがない。忘れたくない。
オーストリア皇帝や貴族たちが聴いたことがない音として称賛し、庶民たちが熱狂した未知の大きさを持つルートヴィヒの音楽。革命家とまで言わしめたほどの新しい音楽家はしかし、一たび耳が聞こえないことが明るみに出ると、すぐに「新時代の旗手」に取って代わられてしまう。彼らにとってはモーツァルトでもその再来のベートーヴェンでもあるいはロッシーニでも構わないのだ、楽になれれば。芸術も娯楽も文字どおり消費し続け瞬間的な高揚を得ることを日常にして生きている、私のような現代人にも耳が痛い話だ。
100年繰り返してきた歴史に連なり、後進に託して舞台を去ろうとしている人が歌う「忘れないで」は、あまりにも重い。退団という一大イベントを楽しんだあと、彼女がいなくなっても続いていく世界と彼女がやってくる世界の両方で、私たちは変わらず消費を続けていくと思っているからだ。
私は『fff』を、「この歌」を、忘れるだろうか?
感動のままに、忘れない、と誓うことは容易いが、当然のことながら忘れるかどうかは時が経ってみなければわからない。だからまだ終わってはいないのだ。「忘れないで」と、言われなければ今日で消費し尽くしていただろう作品を、終わらせるのかはきっとこれからも思考し続けるかどうかに懸かっている。
望海風斗さん宝塚大劇場卒業に寄す
本当は、ほんの一年前まで当たり前だった、「舞台を上演できたこと」への感謝なんて口にしてほしくなかった。
そんなことは日常だった世界で、ただ自分のことだけに向き合って、考え、感じたであろうことを聞きたかった。公演できただけで幸せなんて思わせないで、たくさんのファンに見送られ、同期に囲まれ、組子全員で舞台に立って、考え得る限りの幸せを与えられる日であってほしかった。それは決して過ぎた望みではないはずだった。一年前までは、ひとり前までは。
とるに足らない新参ファンの私ですらそう思うのだから、それ以上に長く応援してきたファンの方々は、ましてご本人は、どれほど悔しく悲しい思いをしているだろう。なぜ今なのか、なぜここなのか、なぜ自分なのか、問うたことはなかっただろうか。その苦しみを口に出すことを憚って、祈りや励ましに替えざるを得なかったことはなかったのだろうか。
『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』、『NOW! ZOOM ME!!』、もちろん『fff』と『シルクロード』。掛け値なしに素晴らしい舞台をみせてもらいながら、そんな煩悶が今日まで心のどこかに残っていた。消えはしないけれど折り合いをつけられると思ったのは、退団者の顔があまりにも晴れ晴れとしていたからだ。そして、望海さんが「幸せ」と言ったからだ。
「会いたい」という言葉には、叶わない願いへの無念が滲んでいる。それでも「幸せ」は嘘ではない。望海風斗という人は、ベートーヴェンがそうであるように、その舞台に彼女の人生を重ねたくなる人だ。だから、ルイが不幸と一緒に歓喜を歌ったように、望海さんは運命を愛して幸せを得た人なのだと思いたい。望海さんの舞台と歌が私たちを幸せにするのは、それができる人だからこそなのだ、と。
不幸は罰ではない、ルイが死まで覚悟した難聴が天上界の戯れの結果でしかないように。
私が不幸だと思った、前例のない千秋楽をやり遂げて続く誰かの道を作った人に、たくさんの敬意とありがとうを捧げます。残る最後の旅路を行く前に、ご卒業おめでとうございました。